昭和46年04月22日 夜の御理解



 金光新聞が送って参りました。何時もあんまり見ないんですけれども、私の書いたものを、金光新聞に載せたいからといって、依頼を受けておったからどう言う様な事を書いて有るんだろうかと思うて、やっぱり同じかなんかという先生が書いて居られます。ま、来月再来月に載る訳でしょうけれども。目を通させて貰いよったら、金光大神覚えについて、あの金光真聖先生が書いて居られる中にね。
 大谷の近所あの近所には、天台宗が大変多いと言う事を、何故多いとか言う事やら、色々書いて居られます。天台宗だけはね、この御本を読ませて頂きますと、厳しいあの日連上人もその悪口を言わなかったと、いう程しにまあ大きな宗教だというらしいんですね。例えば親鸞あの日蓮が、他の宗教もみんな邪道だ、邪派だという風にいうておる。真言宗真言は亡国國を滅ぼすんだと。念仏の禅はこれは真宗のことですね。あの親鸞上人様の教えは無限だ、いわゆるもう無限地獄に落ちるんだというね。
 逸賊国とも言って居る。と言う様に、あらゆる宗教を亡国であり、賊国であり国賊であり、無限地獄であり禅はであると決めつけてあるけれども。天台宗のことだけは、言ってないと言う様な事が書いてありましたがね。私はその中から思わせて頂いてハハアしかし成程日蓮が言ったその事はこりゃまんざら嘘ではないなという気が致しましたね。例えばこれの念仏無限なんていう、念仏を唱えることは、そのままどんなに悪人であろうが、いうならば、その時の一番低辺の生活をして居った。
 漁師とかね、狩人なんかでも、南無阿弥陀仏を唱えれば助かるんだ。という風に説いてあります。ですからそのもうそりゃあ善人ですら助けられる仏様だから悪人は尚更助けられると云うのが道で云う親鸞の悟りの境地だと私は思うんですけれどもね。ところがその又見方を変えますと、念仏無限というそういう助かり方があるものかと、そういう成程自分が助かった自己満足だと。こりゃ私もそう思うね、なんまんだぶ、なんまんだぶと、唱えればもう悪人でも助かるという、そういうな安易な助かり方。
 まあそれだけはその火を付けた様に、全国に真宗は広がったのはそういう訳だとも思いますけれども。成程教えを聞けば聞く程、それにはそれに理屈がある。けれどもその成程日蓮の言うたところにも、こりゃ又理屈があるとね、南無阿弥陀仏を唱えるとこりゃもう無限地獄に落ちると、いわば悪口を言ってます。もう極端な悪口です、そしてまあ日蓮宗いわゆる法華経を唱えなければ、極楽に行けないと説いて居るわけです。
 けども私はその法華経がどういうものか、日蓮のお道の信心がどういうものか知らんけれども、成程余りにも簡単に南無阿弥陀仏を唱えるところに、即もう助かると言う事は極楽に行くという意味じゃないと思うんですよね。いわゆる地獄の底にでも、やはり阿弥陀如来の願いというものがある。それを四十八願と言う様な表現をして居られます。親鸞上人は。落ちるこの世も四十八願の中と思えば危なげはなし。といわゆる天地の親神様の懐の中だという風に言うた訳なんです。
 地獄の底だってけれども、やはり地獄の底は地獄の底だと言う事。だからそこのところを云ってる訳ですよね。あの念仏無限とか念仏唱えれば、無限地獄に落ちるんだと、だから地獄の底に落ちるより他はない。だからそこでお釈迦様のじゃない、如来様の懐の中だとまあ思えば、そう思えぬ事はない訳なんです。と言う様なね、親鸞上人の私は信心は大変自分でも、いわばこの子供の時から洗脳されて居ますからね。私は。爺の信仰で、だから好きですし。
 又教祖の信心振りというものも、親鸞上人のそれに似通ったところが沢山有りますから、私の御理解の中には、親鸞のお話が沢山出て来るですけれどね。丁度ここを読ませて頂きよってからですね、成程あのう日蓮が言う様に念仏無限と言う様な事もね、やっぱ考えなければいけない。そこでんならあのう教祖様がね。ここんところをどういう風に説かれたかと言う事なんです。私はほんとに、金光様を唱えさせて頂かなければ居られないし、金光様を唱えるところにい、わゆるおかげが受けられるという。
 金光様金光様とこう、金光様というそこにはね、金光様に任せると言う事だとね。いうならば金光様に命上げますである。又金光様も命貰いますである。昨日一昨日の御理解の中にね、私が神の信心とは教祖の信心に、没入すること、神の心に没入することが、信心生活だという。あの御理解を聞いて貰った時に、あの久富さんが頂いて居られますがね、命貰いますと頂かしゃった。その通りなんです。だから私共は命差し上げますと言う事になる訳です。
 そこでんなら、親鸞が言う様にどんなに罪深い者でも、命上げますと言うたらそれがおしまい、そうじゃ無い。例えばここは御用に使うて下さい、御用に使うて下さいと言うても、汚れて果てておる者は、神様使いなさる筈がないね。例えばんなら神様御飯を召し上がる。神様がままになられる、時にお給仕の御用に使うて下さいと言うたってね、手はこう汚れとる顔はすすけとるちゅうごたるとば、何のその御用に使いなさる筈が無い。
 どうぞ御用に使うて下さい、御用に使うて下さいと、んなら金百万持って来いと言うたって、お金も無い者が御用に使われないね。神様の身近にお喜び頂ける様な、御用に立たせて頂きたいと思うならね、先ず清まらなければ限りなく、美しゅうならなければ駄目だと。ここのところが違う訳ですね。
 私共が神様にもう親先生任せと、こう言うならねその親先生が、右と言やあ右、左と言やあ左と、言う事だけに思うとった。そんなこっちゃないですね、結局神様に任せると言う事は神様に命上げます、と言う事だけれども、そんな汚い命は要らんと仰ったらどうなるかとね。、おまえの心の中に、我情我欲がいっぱい有る様な命は要らんぞと、仰ったらそれまでじゃろう。神様はそうさせなければ、氏子が助からんという、一つの神様の働きの中にはね。神様だけではどうにも仕様がおありにならない。
 それで氏子が本気で改まります本気で磨きます、限りなく美しゅうなりますこういう印を見せて行く者の上にですね。その人が御用に使うて下さいといいその人が命上げますと云うその命だって貰いますと言う事になるのですね。だから私金光様の御信心は、いわゆる成程地獄の底も、天地の神様のお懐の中でもあろうし。同時に又仏教的に言うならね、阿弥陀如来様の四十八願、四十八の願いがあると言われるが。
 四十八の願いの中に有ることはあるけれども、過程が沢山有る。地獄の底も有ろうね。極楽も有ろうという訳なんですよ。私共はやはり極楽の中でないといけん、地獄の底までもという訳にはいかん。為にはやはり如何に本気でね、私共がもういち早く改まることに、心使せよと清まらせて貰う
   (途中末尾切)